「読む」から「しゃべる」へ
普段の会話の時に、「読む」と「しゃべる」をどう使い分けているでしょうか。
例えば「読む」は、国語の授業で先生に「じゃあ、56ページの3行目から読んでください。」と言われたりでしょうか。
一方「しゃべる」は、授業が始まるとき先生が教室に入ってきても生徒のおしゃべりが止まないときに「はーい、しゃべってないで。授業始めます。」こんな状況で使われるでしょうか。
皆さんも思い返してみてください。主に「読む」を使うときは、事前に原稿などがある場合に、その文章を読む時ではないでしょうか。「しゃべる」を使うときは原稿や用意された文言は無く、自由にしゃべってほしい。フリートークでお願いします。こういった状況で使われてると思います。
おおざっぱに言えば、「読むは他者の言葉」。「しゃべるは自分の言葉」。
他者の言葉を代弁するなら「読む」でいいが、自分の言葉で語ってほしかったり、キャラクターを演じなければならないなら「しゃべる」ことができなければならない。
他者の言葉を代弁する人たち、これはアナウンサー。
自分の言葉で語る人たち、これはナレーター。
キャラクターを演じる人たち、これは俳優。
ナレーターも俳優も、ナレーション原稿や台本に書かれたセリフは他者が書いたものだが、それを自分の言葉になるまで読解して「しゃべる」まで昇華させなければならないのです。
もちろんアナウンサーの方々も「読む」に甘んじず、「しゃべる」まで昇華させることができればより良いと思います。
「読む」から「しゃべる」へ、という意識改革をしてほしいのは、よくレッスンなどで指導者の側から生徒に向かって「ナレーション原稿を、読んでみてください」とか、「セリフを、読んでもらいます」と呼びかけているのを見聞きしているからです。
この「読む」という言葉は、幼少期から言われ続けている言葉です。お母さんやお父さんに「よく読めたね」と褒められたり、国語や英語の教師に「次の例文を読んでみてください」と指名されたり、アナウンスやお芝居の指導者に「とちらずに読むことは当たり前です」とはっぱをかけられたり。
そして言われ続けた側も何も考えずに「どこから読めばいいですか」とか「うまく読めました」「感情をこめて読めていたと思います」などと声を出して実技することを「読むこと」と認識してしまっているのです。この「読むこと」とは、「音読」のことです。書いて字のごとく、「音を出して読む」です。対して「音を出さずに読む」は「黙読」。
「音読」と「黙読」はあくまでも対象者は自分です。その文章を理解しようと声に出したり出さなかったりしながら。
声に出しているから対象が他人なのではと思うかもしれませんが、声に出して他人に届けることは「朗読」になります。自分の解釈を他人に共有してもらいたい行為が「朗読」なのです。
「読む」は自己完結。独りよがり。「しゃべる」は他者との共有。表現すること。
この違いを理解してもらえれば、自分がこれから身につけなければいけないものがはっきりすると思います。
日常的に「読む」という言葉を使い分けられるまでは、あえて「読む」を「やる」に置き換えて使ってみてください。「どこからやればいいですか」とか「うまくやれました」「感情をこめてやれたと思います」こうやって、自分に「読むんじゃない、やるんだ」と暗示をかけてください。
「読む」を使うことをやめろと言っているのではなく、「読む」を漠然と使うことをやめてほしいのです。「読む」という行為をちゃんと理解して使えるようになれば、言葉を使い分けられるようになるでしょう。
これもまた、日本語を再認識するきっかけになってほしいと思います。